多賀まで行ってきました。

こんにちは。ventです。

今日は多賀町で、仕事です!

 

多賀町といえば、多賀大社が有名ですよね。

「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との俗謡もあるほどです。

多賀大社ってどんな歴史があるのでしょう。

延命長寿・縁結びの神として全国的に古くから信仰を集めていました。

あの豊臣秀吉も厚い信仰をしていました。

祭神として天照大神(あまてらすのおおみかみ)の両親の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)を祀っている旧官弊大社です。

「お多賀さん」の名で親しまれ、駅前の大鳥居から神社までの参道の両脇にはみやげ店などが並びます。
 神社を清流が囲み、太閤橋(たいこうばし)と呼ばれる石の反り橋を渡って門をくぐると、玉砂利を敷いた境内の向こうによく茂った木立を背に堂々とした風格を持つ本殿が建ちます。厳かな雰囲気が漂う境内には、本殿右に能舞台、左に絵馬殿が立っています。

また、東廻廊の横にある石は、61歳の重源

(ちょうげん)が東大寺を再建するために

延命を祈願し、無事願いが叶ったたことを記念したもので、延命石と呼ばれています。

拝殿などは、格天井が美しいといわれています。

社殿は何度かの倒壊や火災により建て替えられ、現在の社殿は昭和7年(1932)に再建されたものです。
 また、神社から少し離れた杉坂山に杉坂峠の杉と呼ばれる杉があり、御神木となっています

とても良いところなので、是非一度寄り道してみてください(^_^)

 

今日は大津市について

こんにちは。ventです。

今日は大津市で仕事です。

大津市の歴史を調べてみました。

<室町時代>
南北朝内乱に大津の地もまきこまれ、

山門(延暦寺)は南朝、寺門(園城寺)は北朝につくなどして戦場となりました。

その中で足利尊氏によって室町幕府が開かれ、3代将軍義満のときに南北朝が合一されました。この時代には庶民の力も大きくなり、

土倉や馬借 といった金融・運送業者の行動が

世を動かすまでになりした。

また、庶民の旅も観音巡礼といったかたちで

盛んとなりました。
<安土桃山時代>

織田信長豊臣秀吉は、天下統一の戦いのなかで、大津を重視しました。

元亀2年(1571)、信長は、平安京以来の宗教的権威であった山門(延暦寺)を焼き打ちし、

山麓の湖岸に坂本城を築いて近江さらには

畿内平定の基地としました。

また、天下統一を果たした秀吉は、天正14年(1586)頃に大津城を築き、水運を整備し

大津を東国・北国の諸物資の大集散地として

発展させました。
<江戸時代>

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で、徳川家康

天下を取りました。その前哨戦 の大津篭城戦で焼けた大津の町を、幕府直轄の港町・宿場町として復興させました。

城は膳所に移して湖南 の村々を支配させ、のちに湖西の支配に堅田藩をおきました。

また秀吉・家康のもとで延暦寺は復興。

家康の側近として活躍した天海は、坂本に家康をまつる東照宮を建立しています。
<近代>

明治維新後、大津は滋賀県の行政の中心として位置づけられ、県庁が置かれました。

また、陸軍歩兵第九連隊の駐屯地となり、

軍都の性格も加えられました。

また、交通・ 運輸・治水等諸分野で近代化が

進められ、汽船の就航や鉄道の敷設、

また琵琶湖疏水の開削や瀬田川洗堰の建設などが次々と実施されました。

その最中に起こったのが、日本をゆるがした大津事件でした。

<補足>
大津事件は、1891年(明治24年)5月11日に

日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で警備にあたっていた警察官

津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件である。

 当時の列強の1つであるロシア帝国の艦隊が

神戸港にいる中で事件が発生し、まだ発展途上であった日本が武力報復されかねない緊迫した状況下で、行政の干渉を受けながらも

司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件とされる。

裁判で津田は死刑を免れ無期徒刑となり、

日本政府内では外務大臣青木周蔵

内務大臣・西郷従道が責任を負って辞職し、

6月には司法大臣・山田顕義が病気を理由に

辞任しました。

 

その土地でいろいろな歴史があり、おもしろいですね(*^^*)

 

田辺市の歴史

こんにちは。ventです。

和歌山県田辺市にある鬪雞神社。

鬪雞神社は、通称「権現」と呼ばれ、御祭神の中には、熊野三山熊野本宮大社熊野那智大社、熊野速玉大社)も勧請(かんじょう)されています。熊野権現の三山御参詣に替えるという三山の別宮的存在で熊野信仰の一翼を負っていました。熊野本宮大社が川の増水で流失する以前の社殿の形を再現しています。
また、鬪雞神社は勝負の神様としても御利益があるともいわれています。

鬪雞神社は、壇ノ浦合戦で源氏を勝利に導いた熊野水軍の伝説が今に伝わる神社です。

鬪雞神社の名の由来は、平家物語壇ノ浦合戦の故事によるもので、源氏と平氏の双方より熊野水軍の援軍を要請された武蔵坊弁慶の父であると伝えられる熊野別当湛増(たんぞう)が、

どちらに味方をするかの神意を確認するため、神社本殿の前で赤を平氏、白を源氏に見立てた紅白7羽の鶏を闘わせたことによるものです。境内の一角にはその様子を再現した湛増と弁慶像があります。

そのほかにも、神社の社務所には源義経が奉納したといわれている笛(銘白竜)、弁慶産湯の釜、弁慶の父湛増が使ったとされている鉄烏帽子や鉄扇等の宝物が展示されています。

弁慶祭の時には流鏑馬を参道でしていたみたいです。

この前訪問した和歌山県田辺市について

こんにちは。ventです。

この前ドライブした田辺市ですが、

勧進帳」「船弁慶」など、 歌舞伎や人形浄瑠璃などでもよく知られている武蔵坊弁慶が生まれたとされる場所であります。しかしながら、 彼が実在した人物であったかどうかはさだかではないですが。

伝説は後年に寓話となり、 五条橋での義経との出会いや仁王立ちで大往生を遂げるという逸話 が伝承されてきた。

田辺生まれだとする考えは、 地元では広く信じられている。 出生地について田辺説が最も有力だと考えられるのは、「義経記」 の記述によるものである。 それによると弁慶は熊野別当家の嫡子で、幼名を鬼若といった。 比叡山で修行を行った後、 山を降りるにあたって自ら名付けたのが、 西塔武蔵坊弁慶という一般によく知られている名前である。
比叡山を下った弁慶は、書写山円教寺の僧の仕打ちに腹を立て、 寺を焼き払い、 その後再び京都に上洛して義経と出合ったとされている。 これが童謡にも歌われている五条の橋の上の決闘である。 敗れた弁慶は義経と主従の契りを結び、生涯の部下となった。

また、ここにある闘鶏神社と田辺市駅には

弁慶像もあります。

 その土地の歴史をしるのもとても楽しいですね。

 

今日の訪問先は

こんにちは😊

今日は和歌山県田辺市へドライブ‼

久しぶりに行くのでお気に入りのお店 

フライパンでランチをしようと思います😊

夫婦で切り盛りしている小さな洋食屋さんですが、おかずの種類が多いし、地場の食材を使っているので、新鮮でとても美味しい。

火曜日定休ですが、立ち寄る機会あれば行ってみてください😊

 

 

 

引っ越し完了‼

事務所の引っ越し、無事に完了しました😆

業者が入った日に、大体の片付けは完了しました✌

今日からは通常業務をこなしながら、片付けもしていきます😊

早く片付け出来たのは、事前準備をしっかりできたからだと思います😆

何事も段取りが大事ですね‼

頑固な汚れの強い味方‼

こんにちは😆 Ventです😄

作業着で、引っ越し準備中‼

ずっと動かさなかったところを動かすと汚れや埃がすごいですよね😭

そんなところを掃除したりしてると、

靴下は真っ黒、作業着も真っ黒‼

洗濯機だけでは、落ちない‼

汚れがひどい所を、部分洗いしないと😭

そんな時に私のオススメ石鹸はウタマロです。

 頑固な汚れが本当にきれいになります‼

ホームセンターなとでも売ってると思います😄